ジョン・フォン・ノイマンの生涯
年表
- 190312 月 28 日、銀行家の息子としてブダペストに生まれる。
- 1913父が貴族の称号を受け、息子は「フォン・ノイマン」となる。
- 1921ブダペストのルター派ギムナジウムを卒業。ユージン・ウィグナーと同じ学校で学んだ。
- 192319 歳で順序数の定義を発表する。
- 1926チューリッヒで化学工学の学位、ブダペストで数学の博士号を得る。
- 1927ベルリン大学で最年少の Privatdozent(私講師)となる。
- 1928ゲーム理論の基礎となるミニマックス定理を発表する。
- 1930プリンストンに移る。1933 年には高等研究所の最初の教授の一人となる。
- 1932『量子力学の数学的基礎』を出版する。
- 1943ロスアラモスで原子爆弾計画に加わる。
- 1944オスカー・モルゲンシュテルンとの共著『ゲームの理論と経済行動』を出版する。
- 1945プログラム内蔵式計算機を記述した EDVAC 報告書を書く。
- 1946スタニスワフ・ウラムとともにモンテカルロ法を開発する。
- 1952IAS の計算機が稼働を始める。
- 1955原子力委員会の委員に任命される。がんにかかっていることを知る。
- 19572 月 8 日、ワシントンで死去。53 歳だった。
- 12 月 28 日、銀行家の息子として生まれる。ルター派のギムナジウムで学び、ユージン・ウィグナーと同窓になる。
- 父の強い勧めで化学を学びながら、ブダペストの数学の博士課程にも籍をおく。
- 工科大学で化学工学の学位をとる。ジョージ・ポリアの授業に出て、ポリアは後に、彼が唯一恐れた学生だったと語る。
- ダフィット・ヒルベルトのもとで、数学の基礎と新しい量子力学の基礎を研究する。
- 大学で最年少の私講師になる。1928 年にミニマックス定理を発表する。
- 大学の教授となり、1933 年からはアインシュタインやゲーデルとともに高等研究所の教授になる。そこで IAS 計算機を作る。
- 原子爆弾計画の顧問を務める。ウラムとともにモンテカルロ法を作る。
- 原子力委員会の委員となる。1957 年 2 月 8 日、ウォルター・リード病院で癌のため亡くなる。
- 1903–1921 · ブダペスト
- 1921–1923 · ベルリン
- 1923–1926 · チューリヒ
- 1926–1927 · ゲッティンゲン
- 1927–1930 · ベルリン
- 1930–1957 · プリンストン
- 1943–1955 · ロスアラモス
- 1955–1957 · ワシントン
ブダペストの少年
ノイマン・ヤーノシュ・ラヨシュは、1903 年 12 月 28 日、当時ヨーロッパで最も豊かで文化の栄えた都市の一つだったブダペストに生まれた。父マックス・ノイマンは成功した銀行家で、1913 年にオーストリア=ハンガリー皇帝から貴族の称号を受けた。息子がのちに西欧で名乗る「フォン」はここから来ている。
子ども時代の話は伝説のように聞こえる。六歳で八桁の割り算を暗算し、父と古代ギリシア語でおしゃべりをした、八歳で微積分を読んでいた、電話帳の一ページを読んで名前と番号をそらで言い、客を楽しませた、という。誇張があるにせよ、彼が人に与えた印象をよく示している。
彼は国内で最も厳しい学校の一つ、ブダペストのルター派ギムナジウム、通称 Fasori で学んだ。数学教師のラーツ・ラースローは、この少年には学校が与えられる以上のものが必要だとすぐに気づき、大学の教授たちのもとへ送った。一学年上にはユージン・ウィグナーがいた。ウィグナーは 1963 年にノーベル物理学賞を受け、何年ものちに、この同窓生ほど速い頭脳には会ったことがないと語ることになる。
化学者であり数学者でもある
父は数学には将来がないと考え、息子を技術者にしたがった。フォン・ノイマンは両方をやった。1921 年から 1926 年まで、ベルリン、次いでチューリッヒ工科大学で化学工学を学びながら、ブダペストでは数学の博士課程に籍を置き、試験のときだけ顔を出した。1926 年には化学の学位と、集合論の基礎についての博士号の両方を手にしていた。19 歳のときにはすでに、今も使われている順序数の定義を発表していた。
1926 年から 1927 年にかけて、彼はゲッティンゲンに行き、ダフィット・ヒルベルトのもとで働いた。ヒルベルトは数学全体を確かな基礎の上に据えようとしており、生まれたばかりの量子力学にも関心をもっていた。フォン・ノイマンはそこで量子論をヒルベルト空間の言葉で書く仕事を始めた。1927 年にはベルリン大学で最年少の Privatdozent となり、1928 年にはゲーム理論を創始するミニマックス定理を発表した。
プリンストン
1930 年、プリンストン大学がフォン・ノイマンとウィグナーを招いた。三年後、ナチスが政権を握り、ユダヤ系の教授をドイツの大学から追放し始めると、フォン・ノイマンはプリンストンに新設された高等研究所の最初の終身所員の一人となった。アルベルト・アインシュタイン、クルト・ゲーデル、ヘルマン・ヴァイルと並んでのことである。29 歳だった。
プリンストンで皆に「ジョニー」と呼ばれた彼は、ぼんやりした天才とは正反対だった。どんな場面でも背広を着て、夜更けまで続くパーティーを開き、きわどい冗談を言い、騒がしい中で仕事をするのを好み、運転がひどすぎて車をしばしば買い替えた。二度結婚した。最初の妻マリエット・ケヴェシは、のちに重要な経済学者となる一人娘マリーナの母である。二番目の妻クラーラ・ダーンは、最初期の計算機プログラマーの一人となった。
戦争とロスアラモス
フォン・ノイマンは 1937 年にアメリカ市民となり、戦争が始まると、爆発と衝撃波の問題について陸軍と海軍に助言するようになった。1943 年、原子爆弾がつくられていたニューメキシコのロスアラモスに呼ばれた。最もよく知られた貢献はプルトニウム爆弾に関するものだ。この爆弾には、多くの点で同時に起爆して中心部を一様に圧縮する爆薬の球殻が必要で、フォン・ノイマンはこの爆薬「レンズ」の設計の計算を助けた。計算があまりに長かったので、彼は新しい計算機械に関心をもつようになった。
計算機
1944 年、フォン・ノイマンは鉄道駅のホームで偶然ハーマン・ゴールドスタインに会い、ペンシルベニア大学でつくられていた電子計算機 ENIAC の話を聞いた。数週間のうちに彼はそこにいた。1945 年には ENIAC の後継機 EDVAC についての報告書を書いた。そこに記された構造は、それ以後のほとんどすべての計算機のものとなった。同じ年に、最初期の整列プログラムの一つ、マージソートも書いている。
戦後、彼は多くの純粋数学者の反対を押し切って、研究所に独自の計算機をつくらせた。IAS マシンは 1952 年から稼働し、その設計にならった機械がいくつもの国でつくられた。最初のモンテカルロ計算も、1950 年の計算機による最初の天気予報も、この機械と ENIAC の上で走った。
最後の年月
1950 年代のフォン・ノイマンは、アメリカ政府で最も影響力のある科学者の一人だった。冷戦では強硬な立場をとり、水素爆弾と大陸間ミサイルの計画に加わった。1955 年には原子力委員会の委員に任命された。同じ年、がんにかかっていることがわかり、病気は急速に広がった。
彼はできるかぎり仕事を続けた。はじめは車椅子で、のちにはワシントンのウォルター・リード病院で。病室の扉の前には、うわごとで機密を漏らすことのないよう兵士が立っていた。イェール大学で行うはずだった講義『計算機と脳』の準備をしていたが、講義は実現しなかった。1957 年 2 月 8 日に亡くなった。53 歳だった。本は翌年、未完のまま出版された。
練習:ハエの級数
フォン・ノイマンが足したとされる級数を足してみよう。最初の区間では、ハエと向かってくる自転車乗りは時速 $15 + 10 = 25$ km で近づき、はじめは 20 km 離れている。各区間が等比数列をなすことを示し、和を求めよ。
最初の区間は $\frac{20}{25} = 0.8$ 時間続き、ハエは $12$ km 飛ぶ。その間に二人の自転車乗りは $0.8 \times 20 = 16$ km 近づき、残りは $4$ km、つまり最初の距離の五分の一になる。したがって各区間は前の区間の $\frac15$ であり、$12 + \frac{12}{5} + \frac{12}{25} + \cdots = \dfrac{12}{1 - \frac15} = 15$ km となる。
練習:短い生涯
フォン・ノイマンは 1903 年から 1957 年まで生きた。順序数(1923)、ミニマックス(1928)、EDVAC 報告書(1945)を発表したとき、彼は何歳だったか。
およそ 19 歳、24 歳、41 歳である(誕生日が 12 月 28 日なので、1923 年のほぼ一年じゅう、彼はまだ 19 歳だった)。三つの仕事は、論理学、経済学、計算機工学という、互いに何の関係もない分野に属している。
出典: Norman Macrae, John von Neumann(1992)· Ananyo Bhattacharya, The Man from the Future(2021)· フォン・ノイマンの伝記、MacTutor · Stanisław Ulam, “John von Neumann 1903–1957”, Bulletin of the AMS(1958)。