ジョン・ネイピアの生涯
年表
- 1550エディンバラ近郊のマーキストン城に生まれる。父アーチボルドは 16 歳。
- 1563母が亡くなる。13 歳でセント・アンドルーズ大学に入る。
- 1564 ごろ学位を取らずにセント・アンドルーズを去り、大陸で学ぶ。
- 1571スコットランドに戻る。
- 1572エリザベス・スターリングと結婚。ガートネスに移り、城を建てる。
- 1593『聖ヨハネの黙示録全体の明らかな発見』を出版。生前いちばん有名な本となる。
- 1594ファスト城に隠された宝を探す契約を結ぶ。
- 1596戦争のための「秘密の発明」を手稿に記す。
- 1608父の死により、マーキストンの領主となる。
- 1614『驚くべき対数規則の記述』を出版する。
- 1615ロンドンの教授ヘンリー・ブリッグスをマーキストンに迎える。
- 1617計算棒を紹介する『ラブドロギア』を出版。4 月 4 日に亡くなる。
- 1619息子ロバートが『驚くべき対数規則の構成』を出版する。
マーキストンの少年
ジョン・ネイピアは 1550 年、エディンバラから三キロあまりの小さな石の城、マーキストン塔で生まれました。父サー・アーチボルド・ネイピアはわずか 16 歳でした。一家はスコットランドの貴族で、名前はさまざまに綴られました。Napier、Napeir、Nepair、ラテン語では Neperus で、フランス語の Neper はここから来ています。
当時のスコットランドは宗教戦争のさなかにありました。1560 年、議会はローマと決別してプロテスタントの宗教改革を受け入れ、カトリックの女王メアリー・ステュアートは数年後に退位させられます。ネイピアは熱烈なプロテスタントとして育ち、その信仰は彼の生涯を形づくりました。
母が亡くなった 1563 年、13 歳のジョンはスコットランド最古のセント・アンドルーズ大学に送られました。そこにいたのは短いあいだで、学位を取らずに去っています。叔父のアダム・ボスウェル司教が父に、息子を外国で学ばせるよう勧めており、その後の数年はおそらくフランスかネーデルラントで過ごしました。記録には場所が残っていません。1571 年には戻っていました。
- エディンバラ近郊のマーキストン塔で、16 歳の貴族の息子として生まれる。
- 13 歳でスコットランド最古の大学に入り、学位を取らずに去る。
- 国外で学ぶ。おそらくフランスかネーデルラント。記録には場所がなく、地図上の点は目安にすぎない。
- 家の領地に自分で建てた城に住む。黙示録について書き、対数の計算を始める。
- ロバート・ローガンと、城に隠された宝を見つけて三分の一を受け取る契約を結ぶ。
- マーキストンの領主となる。対数を発表し(1614)、ブリッグスを迎え(1615)、『ラブドロギア』を出して 1617 年に亡くなる。
- グレシャム・カレッジでヘンリー・ブリッグスが本を読み、著者に会うためエディンバラへ向かう。
- ケプラーが表を見て、亡くなったことを知らずに男爵へ手紙を書き、『ルドルフ表』で対数を使う。
- 1550–1563 · マーキストン
- 1563 · セント・アンドルーズ
- c. 1564–1571 · ヨーロッパ大陸
- 1574–1608 · ガートネス
- 1594 · ファスト城
- 1608–1617 · マーキストン
- 1615 · ロンドン
- 1617–1627 · リンツ
ガートネスの領主
1572 年、ネイピアはエリザベス・スターリングと結婚し、内陸にある一家の領地ガートネスに移って城を建てました。エリザベスは 1579 年に二人の子を残して亡くなり、彼はアグネス・チザムと再婚して、さらに十人の子をもうけました。ネイピアは熱心な地主でした。畑に塩をまいて肥料にする実験をし、炭鉱の水をくみ出す水力スクリューを発明しました。
しかし彼の名声は、世界の終わりについての本から生まれました。1593 年、『聖ヨハネの黙示録全体の明らかな発見』を出版します。聖書の最後の書をプロテスタントの立場から読み、教皇を反キリストとしたものです。ネイピアは、最後の審判は 1688 年から 1700 年のあいだに来ると計算しました。本は大成功で、何度も版を重ね、フランス語、オランダ語、ドイツ語に訳されました。同時代の人々にとって、ネイピアは何よりもまず神学者だったのです。
マーキストンの魔法使い
近所の人々は、彼が悪魔と通じていると思っていました。のちに作られたのかもしれませんが、彼がどう見られていたかを示す話が伝わっています。一つはこうです。召使いのだれが盗みをしているのかを知るため、ネイピアは黒い雄鶏を暗い部屋に閉じこめ、一人ずつ入ってなでさせました。泥棒が触れると雄鶏が鳴く、と言ったのです。雄鶏にはすすが塗ってありました。罪のある者はこわくて触れず、手がきれいなまま出てきました。もう一つ。穀物を食べる隣人の鳩に腹を立て、ブランデーにひたした豆をまき、酔って地面に落ちた鳩を拾い集めたといいます。
1594 年、彼はレスタリグのロバート・ローガンと、ファスト城に隠されているという宝を、説明しない方法で見つける契約を結びました。見つかったものの三分の一をもらう約束でした。実際に何か探したのかどうかはわかりません。二年後の 1596 年、スペインの侵攻を恐れた彼は、手稿に秘密の発明を記しました。日光を集めて船を焼く鏡、戦場全体をなぎ払える大砲、そして中から動かし、小さな穴から撃つ金属の戦車です。どれも作られませんでした。
二十年の計算
1594 年ごろ、ネイピアはかけ算を足し算に置きかえる方法を考えはじめました。考え自体は古いものでしたが、だれも実用的にはできていませんでした。ネイピアは二十年かけて、何百万もの演算を手で行いました。1614 年、エディンバラで『驚くべき対数規則の記述』(Mirifici logarithmorum canonis descriptio)を出版します。説明が 57 ページ、表が 90 ページです。彼がつくった対数(logarithm)という言葉は、二つのギリシア語をあわせたものです。lógos は比、arithmós は数。
本はロンドンに届き、グレシャム・カレッジの幾何学教授ヘンリー・ブリッグスの手に渡りました。すっかり興奮した彼は、1615 年の夏、著者に会うためだけにエディンバラまでの長旅をしました。二人は10 を底にして表を改良することで合意しました。ブリッグスは翌年もやってきて、1617 年にもまた来るつもりでした。
時間は残されていませんでした。1617 年、ネイピアは計算棒を紹介する『ラブドロギア』を出版し、4 月 4 日、マーキストンで痛風のため亡くなりました。エディンバラのセント・カスバート教会に葬られています。1619 年、息子ロバートが、表をどのように作ったかをネイピアが説明した手稿を出版しました。
出典: Julian Havil、John Napier: Life, Logarithms, and Legacy(Princeton University Press、2014)· Mark Napier、Memoirs of John Napier of Merchiston(1834)· ネイピアの伝記、MacTutor。