ヨハン・ベルヌーイの遺産
ヨハン・ベルヌーイは、兄の『推測術』やニュートンの『プリンキピア』のような大著を書きませんでした。いちばん有名な本は他人の名で出ました。彼が残したのは仕事のしかたです。物理や幾何のあらゆる問題を方程式に変え、ライプニッツの微積分で解くこと。そして弟子たちを残しました。
ライプニッツの闘士
微積分を発明したのはニュートンかライプニッツかという争いで、ヨハンはライプニッツ側の最も戦闘的な兵士でした。1713 年のはじめ、ニュートンが会長をつとめる王立協会がニュートンに優先権を認める報告を出すと、ライプニッツは匿名のビラ『飛び紙』(Charta volans)で応じ、そこに「ある卓越した数学者」の判断を引用しました。それがヨハンでした。その後何年も、ヨハンはニュートンの方法では解けないと考えたむずかしい問題で、イギリスの数学者たちに挑みつづけました。ライプニッツは 1716 年に亡くなり、ヨハンはその後も長くひとりで戦いました。この争いのために、イギリスの数学はほぼ一世紀のあいだ大陸の数学から切り離されることになります。
関数という言葉
数学的な意味での 関数 という言葉は、1690 年代のライプニッツとヨハンの手紙のやりとりのなかで生まれました。1718 年、ヨハンは最初の定義を発表します。
私は、変量の関数とは、その変量と定数とからなんらかのしかたで組み立てられた量のことだと呼ぶ。
— ヨハン・ベルヌーイ『パリ科学アカデミー紀要』(1718)
彼は $x$ の関数をギリシャ文字 $\varphi$ で書き、ときにはかっこなしで $\varphi x$ と書きました。$f(x)$ と書きはじめたのは、1734 年、弟子のオイラーです。このサイトの旧関数講座に記号の年表があります。
| 年 | 人物 | 記号 |
|---|---|---|
| 1694 | ヨハン・ベルヌーイ | $x$ によって決まる量を、たとえば $n$ のような一文字で表す |
| 1698 | ヨハン・ベルヌーイ | $x$ の関数を $X$ または $\xi$ で表す |
| 1718 | ヨハン・ベルヌーイ | $\varphi x$ |
| 1734 | レオンハルト・オイラー | $f\left(\frac xa+c\right)$ |
一派
ヨハンは、同じ世紀のほかのどの先生よりも多くの重要な数学者を育てました。たとえば、
- ロピタル侯爵。彼の講義を最初の微積分の本にした。
- 息子のニコラウス二世、ダニエル、ヨハン二世。 ダニエルは流体力学を創始し、ベルヌーイの名を冠した定理を残した。ヨハン二世は父の講座を継いだ。
- レオンハルト・オイラー。その世紀最大の数学者で、土曜日ごとに指導を受けた。
- 最小作用の原理を唱えた ピエール=ルイ・モロー・ド・モーペルテュイ と、地球の形を研究した アレクシ・クレロー。
オイラーを通じて、この系譜はベルリンでオイラーの後を継いだラグランジュへ、そしてそこから十九世紀と二十世紀の数学の大部分へと続いていきます。
残ったもの
- 微積分。 ロピタルの定理、対数微分法、指数計算、関数の定義。
- 曲線。 懸垂線と最速降下線、そして運動と光のあいだのたとえ。
- 変分法。 最速降下線の挑戦と、等周問題をめぐるヤコブとの争いが、オイラーとラグランジュへの道を開いた。
- 力学。 仮想仕事の原理。静力学と『解析力学』の土台。
- 教育。 オイラーを筆頭とする一世代の数学者たち。
覚えておきたいこと
- ヨハン・ベルヌーイは 1667 年から 1748 年まで生きた。バーゼル、パリ、フローニンゲン、そしてふたたびバーゼルで、兄ヤコブの後を継いだ。
- 懸垂線、つまりつるした鎖の曲線は $y=a\cosh\frac xa$。逆さにすると、アーチの理想的な形になる。
- $f(a)=g(a)=0$ なら、$a$ での $\frac fg$ の極限は $\frac{f'}{g'}$ の極限に等しい。ヨハンの講義から来たロピタルの定理である。
- 最速降下線、つまりいちばん速いすべり台はサイクロイドである。ヨハンは球を光線とみなしてそれを見つけた。
- $x^x$ の導関数は $x^x(\ln x+1)$ で、最小値は $x=\frac1e$ にある。
- つりあいでは、すべての力の仮想仕事の和は 0 である。
出典: ヨハン・ベルヌーイの伝記、MacTutor · Florian Cajori、A History of Mathematical Notations、第二巻(1929)、§§ 642–643 · A. Rupert Hall、Philosophers at War: The Quarrel between Newton and Leibniz(Cambridge、1980)。