年表

  1. 1607 ごろ
    フランス南部のボーモン=ド=ロマーニュに生まれる。正確な年は議論がある。
  2. 1626
    オルレアン大学で法学の学位を取得。
  3. 1629–1631
    ボルドーでヴィエトの著作を学び、失われたギリシア幾何学の書物を復元する。
  4. 1631
    トゥールーズ高等法院の評定官となり、名前に「ド」をつける権利を得る。
  5. 1636
    マラン・メルセンヌとの文通を始める。すでに解析幾何学と極大・極小の方法を手にしていた。
  6. 1637
    このころ、ディオファントス『算術』の余白に「最終定理」の書き込みをする。
  7. 1640
    小定理と、$2^{2^n}+1$ の形の数についての予想を伝える。
  8. 1652
    ペストで死にかけ、死亡したと報じられる。
  9. 1654
    ブレーズ・パスカルと手紙を交わし、ともに確率論を創始する。
  10. 1662
    最短時間の原理から屈折の法則を導く。
  11. 1665
    1 月 12 日、カストルで死去。
  12. 1670
    息子サミュエルが、父の余白の書き込み入りでディオファントス『算術』を出版。
  1. 皮革商の家に生まれる。正確な生年は今も議論されている。
  2. オルレアン大学で法学の学位を得る。
  3. ヴィエトの著作を学び、失われたギリシア幾何学の本を復元する。極大・極小の方法はすでに手にしていた。
  4. 高等法院の評定官。余暇にメルセンヌやパスカルに手紙を書き、ディオファントスの余白に「最終定理」を書き込む。
  5. カストルの法廷に勤めていた 1 月 12 日に亡くなる。
法律と数学のあいだで。フランス南西部でのフェルマーの生涯。 地図:© OpenStreetMap 協力者
  1. c. 1607 · ボーモン=ド=ロマーニュ
  2. 1626 · オルレアン
  3. 1629–1631 · ボルドー
  4. 1631–1665 · トゥールーズ
  5. 1665 · カストル
法律と数学のあいだで。フランス南西部でのフェルマーの生涯。

フェルマーの生涯

ギリシア語を読む法律家

フェルマーはトゥールーズ近くの小さな町ボーモン=ド=ロマーニュで生まれました。父ドミニクは裕福な皮革商人で、町の参事も務めました。息子はすばらしい教育を受け、ラテン語、ギリシア語、イタリア語、スペイン語を身につけ、そのいくつかの言語で詩も書きました。

オルレアンで法律を学び、ボルドーで数年を過ごしました。そこで、文字を使う代数の創始者である数学者フランソワ・ヴィエトの信奉者たちと知り合い、本格的に数学を始めました。最初の仕事の一つは、引用をもとに、ギリシアの幾何学者アポロニオスの失われた書物を復元することでした。

ピエール・ド・フェルマーの肖像。ロラン・ルフェーヴル作とされる。
ピエール・ド・フェルマーの肖像。ロラン・ルフェーヴル作とされる。ロラン・ルフェーヴル · Wikimedia Commons · パブリックドメイン。

トゥールーズの裁判官

1631 年、フェルマーはトゥールーズ高等法院の評定官の職を買いました。「パルルマン」という名前ですが、法律を作る議会ではなく、裁判所であり、フランスでもっとも重要な裁判所の一つでした。この職によって彼は法服貴族の仲間入りをし、「ド」をつける権利を得て、ピエール・ド・フェルマーとなりました。

同じ年、母のいとこにあたるルイーズ・ド・ロンと結婚し、5 人の子をもうけました。フェルマーの法律家としての経歴は長く、目立たないもので、民事と刑事の事件を裁きました。同僚たちは彼を博識だが少しぼんやりしていると思っていましたが、それは余暇に彼がしていたことで説明がつくかもしれません。

手紙で数学をする

フェルマーは、ほかの数学者に会うために南フランスを離れることは一度もありませんでした。世界との接点は、パリのマラン・メルセンヌ神父でした。メルセンヌは 17 世紀の SNS のような存在で、ヨーロッパ中の科学者から手紙を受け取り、写して転送していました。

フェルマーのスタイルは独特でした。結果を発表し、ときには他人に証明を挑み、自分の証明はめったに見せませんでした。これは多くの人をいらだたせ、とくにルネ・デカルトとは 2 度争いました。接線の方法をめぐって、そして光の屈折をめぐって。どちらも、歴史はフェルマーが正しかったことを示しました。

ペストと早すぎる知らせ

1652 年、ペストの流行がトゥールーズを襲い、フェルマーは重い病にかかりました。ある友人はほかの学者たちに彼の死を知らせる手紙まで書きました。まもなく、訂正が送られました。「先にフェルマーの死をお知らせしましたが、彼は生きており、もはや健康を心配することはありません。」

その後の数年は、フェルマーにとってもっとも実り多い時期の一つでした。1654 年、ブレーズ・パスカルとの文通から確率論が生まれました。1660 年、二人は会おうとしましたが、どちらも病気でした。パスカルは、フェルマーを「全ヨーロッパでもっとも偉大な幾何学者」だと考えていると書いています。

余白のノート

フェルマーには、読んでいる本の余白に考えを書き込む習慣がありました。愛読書は 3 世紀のギリシアの数学者ディオファントスの『算術』で、1621 年のギリシア語・ラテン語対訳版でした。そこに彼は整数についての書き込みを何十も残しましたが、ほとんどに証明はありませんでした。

フェルマーは 1665 年 1 月 12 日、仕事の旅の途中、カストルで亡くなりました。5 年後、息子サミュエルが父の書き込みを収めたディオファントスの新版を出版しました。その中に、べきについての短い一文があり、それがフェルマーの最終定理として知られるようになります。1679 年には、サミュエルは父のほかの著作を集めた『数学雑録』も出版しました。

フェルマーは職業数学者ではなく、歴史家エリック・テンプル・ベルは彼を**「アマチュアの王」**と呼びました。しかし 17 世紀の数学は、ほとんどすべて彼を通っているのです。

資料: フェルマーの伝記、MacTutor · フェルマーとワイルズについてのアーベル賞の資料。


フェルマーの全トピック · フェルマーと解析幾何学:方程式の中の曲線 →

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