マリア・ガエターナ・アニェージの遺産
長いあいだ、アニェージは彼女のしたこととはあまり関係のない二つのかたちで記憶されてきた。英語圏の数学者にとっては、魔女というあだ名の曲線の名前だった。ミラノの人びとにとっては、若いころに難しい本を書いた慈善の聖女だった。どちらの像も、十八世紀でもっとも影響力のあった数学書のひとつの著者を覆い隠していた。
本
何十年ものあいだ、『解析教程』はヨーロッパで手に入るもっとも完全な微積分の教程だった。イタリアでは何世代もの学生がこれを使った。1775 年の第二巻のフランス語訳と 1801 年のジョン・コルソンの英訳は、本をほかの読者のもとへ運んだ。代数から曲線へ、導関数から積分と微分方程式へというアニェージの選んだ順序は、いまの微積分の授業の順序とほとんど変わらない。
曲線
アニェージの曲線は、思いもよらないところに現れつづけている。
- 統計学ではコーシー分布として。平均をもたない分布の古典的な例である。
- 物理学ではローレンツ型の曲線として。スペクトル線や共鳴の形である。
- 数値解析ではルンゲの関数 $\frac{1}{1 + 25x^2}$ として。1901 年、カール・ルンゲは、この関数を等間隔の点を通る多項式で近似すると、点をふやすほど両端近くの誤差がかえって大きくなることを示した。数値計算法の授業ならどこでも警告として教える「ルンゲ現象」である。
- 地理学と気象学では、丘の断面の簡単なモデルとして。山を越えて吹く風の研究に使われる。
名前
小惑星 16765 Agnesi と金星のクレーターが彼女の名をもっている。ミラノには彼女の名がついた通りや学校があり、ブレラ宮の中庭には胸像が、記念墓地のファメディオには横顔の像が、亡くなった場所には銘板がある。
神の数学者
ここ数十年、マッシモ・マッツォッティやポーラ・フィンドレンのような歴史家が、アニェージの世界、つまりカトリックでありながら啓蒙の空気にふれた十八世紀のミラノを再構成し、数学と慈善が二つの別々の人生ではなかったことを示した。アニェージにとって、幾何学を学ぶことは神へと導く理性をきたえる方法であり、貧しい人びとに仕えることは同じ信仰の帰結だった。マッツォッティの本の副題が、この読み方を要約している。アニェージ、神の数学者。
今日微積分を学ぶ人に残されているのは、三十歳で、自分が学んでいたときにあってほしかった本を書き、しかもそれをあまりにみごとに書いたので、ヨーロッパじゅうの数学者が教えるのに使った、という人物の手本である。
練習:ルンゲの関数
ルンゲの関数は $y = \frac{1}{1 + 25x^2}$ である。これがアニェージの曲線であることを示し、もとになる円の直径 $a$ を求め、曲線の下の面積全体を計算せよ。
$\frac{1}{1 + 25x^2} = \frac{1/25}{x^2 + 1/25}$ と書く。直径 $a$ のアニェージの曲線は $\frac{a^3}{x^2 + a^2}$ で、$a^2 = \frac{1}{25}$、すなわち $a = \frac{1}{5}$ とすると $\frac{1/125}{x^2 + 1/25}$ になる。これはルンゲの関数のちょうど $\frac{1}{5}$ である。つまりルンゲの関数は、縦方向に 5 倍に引きのばしたヴェルシエラなのである。面積は $5 \cdot \pi a^2 = 5 \cdot \frac{\pi}{25} = \frac{\pi}{5}$。置換 $u = 5x$ を使っても、$\int \frac{dx}{1 + 25x^2} = \frac{1}{5}\int \frac{du}{1 + u^2} = \frac{\pi}{5}$ となる。
練習:スペクトル線の幅
あるスペクトル線はローレンツ型 $I(x) = \frac{I_0}{1 + \left(\frac{x - x_0}{\gamma}\right)^2}$ をしている。強さが最大値の半分になるのは $x$ がいくつのときか。線の半値幅はいくらか。
最大値は $x = x_0$ での $I_0$ である。その半分 $\frac{I_0}{2}$ になるのは $\left(\frac{x - x_0}{\gamma}\right)^2 = 1$、すなわち $x = x_0 \pm \gamma$ のときである。半値幅は $2\gamma$ となる。ヴェルシエラが $x = \pm a$ で半分の高さになるのと同じ結果である。
出典: Massimo Mazzotti、The World of Maria Gaetana Agnesi, Mathematician of God(2007) · Paula Findlen、「Calculations of Faith: Mathematics, Philosophy, and Sanctity in Eighteenth-Century Italy (New Work on Maria Gaetana Agnesi)」、Historia Mathematica 38(2011) · Carl Runge、「Über empirische Funktionen und die Interpolation zwischen äquidistanten Ordinaten」、Zeitschrift für Mathematik und Physik 46(1901) · アニェージの伝記、MacTutor。