パスカルの賭け:証明ではなく、計算
パスカルが「神の存在を証明した」と聞いたことのある人は多いでしょう。彼はそんなことはしていませんし、それはできないとはっきり書いています。彼が提案したのは、もっと興味深いことでした。理性で決着がつかないのなら、問いを取り替えよう、というのです。「神は存在するか」と問うかわりに、「どちらに賭けるほうが得か」と問う。そしてこの二つめの問いに、フェルマーと生み出したばかりの数学、つまり公平な分配の数学で答えようとしたのです。
書き込みだらけの紙
晩年のパスカルは、キリスト教を弁護する本のためにメモを集めていましたが、その本を書き上げることはありませんでした。1662 年に彼が亡くなると、友人たちは何百もの断片を見つけました。はさみで切り抜かれ、糸で束ねられたものもありました。友人たちはその一部を選び、1670 年に『パンセ』(思考)という題で出版しました。
賭けの断片は、二つ折りにした一枚の紙で、両面に書かれ、余白や逆さまの向きにも書き足されています。編者たちはこれを書き出しのことばで呼んでいます。**「無限、無」**です。これはパスカルと、信仰をもたない相手との対話で、その相手は、パスカルがパリの社交界で知り合ったシュヴァリエ・ド・メレのような賭博師たちをモデルにしているのかもしれません。
理性では決められない
出発点は、無力の告白です。
神は存在するか、しないかである。だが、私たちはどちらの側に傾くのか。理性はここでは何も決定できない。無限の混沌が私たちを隔てている。この無限の距離の果てで、ある勝負が行われていて、表か裏かが出る。あなたは何に賭けるか。
— ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」
相手は、正しいのは何にも賭けないことだと答えます。パスカルはその逃げ道を認めません。
そうだ、しかし賭けなければならない。それは任意ではない。あなたはもう船に乗っているのだ。
— ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」
信じる者として生きることも、信じない者として生きることも、すでに一つの選択です。選ばないことは、後者を選ぶことになります。
四つのマスの表
今日では、この賭けは表の形で書かれます。選択が二つ、世界の状態が二つあります。
| 神は存在する | 神は存在しない | |
|---|---|---|
| 信じる | 無限の利得:「無限に幸福な無限の生」 | 失うものは少ない:いくつかの楽しみ |
| 信じない | すべてを失う | 得るものは少ない:その同じ楽しみ |
パスカルはこの表を三つの段階でたどり、段階ごとに議論は強くなっていきます。哲学者イアン・ハッキングは 1972 年の論文で、これらが三つの別々の議論であり、三つめが期待値の計算であることを示しました。
第一段階:優越。「勝てば、すべてを得る。負けても、何も失わない。だから、ためらわずに神が存在するほうに賭けなさい。」どの列でも信じるほうがよいか同じなら、計算するまでもありません。
**第二段階:五分五分のときの計算。**相手は、自分は何かを失うと反論します。パスカルはそれを認め、サイコロの勝負のように計算します。勝ち負けの見込みが五分五分なら、一つの命を賭けて二つの命を得るのは割に合う。一つを賭けて三つを得る勝負を見送るのは愚かだ、と。
**第三段階:無限。**では、見込みが五分五分でなかったら? パスカルは、それは問題ではないと答えます。
ここには、得るべき無限に幸福な無限の生があり、負けの有限個の見込みに対して勝ちの見込みが一つある。そしてあなたが賭けるものは有限である。
— ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」
計算
神が存在する確率をあなたがどれほど小さく見積もっても、それを $0$ より大きい $p$ としましょう。信仰生活のコストを有限の数 $c$、神が存在する場合の利得を $G$ とします。信じることの期待値は
$$E(\text{信じる})=p\cdot G-(1-p)\cdot c$$です。$G$ が有限なら、結果はどうにでもなります。$p$、$G$、$c$ しだいです。しかしパスカルは $G=\infty$ とおきます。すると、どんな $p>0$ についても
$$p\cdot\infty-(1-p)\cdot c=\infty$$となり、有限のどんな選択肢も太刀打ちできません。これは賭け金の分配と同じ考え方です。それぞれの賭けの価値は、賞金に見込みをかけたものです。違うのは、今度は賞金が無限大だということです。
証明ではない
この計算が言っていないことに注意してください。計算は確率 $p$ を少しも大きくしません。神が存在する見込みは千に一つだと思っていた人は、賭けのあとでも千に一つだと思っています。この議論は何をすべきかについてのもので、何が真かについてのものではありません。
パスカルはそのことをわかっていました。計算のすぐあとで、相手は「私はどうしても信じられないようにできている」と言います。パスカルは証明を差し出しはしません。信じている人たちと同じようにふるまうこと、「聖水を受け、ミサをあげてもらうこと」を勧め、「神の証拠を増やすことによってではなく、あなたの情念を減らすことによって」自分を納得させるよう努めなさいと言います。パスカルにとって信仰は心から来るもので、計算から来るものではありませんでした。賭けは、無関心こそ最悪の選択だと賭博師に示すためのものにすぎなかったのです。
反論
この賭けは世に出たときから批判されてきました。そしてその批判もまた、数学を教えてくれます。
- どの神か。 1746 年、ドニ・ディドロは「イマームでも同じことが言える」と書きました。どの宗教も無限の利得を約束するなら、表は二行ではなく何十行にもなり、どの行にも無限大が現れます。
- 決心によって信じられるか。 信じたほうが得だと結論したからといって、何かを本当に信じるようになる人はいません。パスカルもそれに同意していたので、決心ではなく習慣について語ったのです。
- 無限大が計算を壊す。 信じるかどうかをコインを投げて決める人は、$\frac12$ の確率で信じることになり、その期待値は $\frac12\cdot p\cdot\infty=\infty$ で、確実に信じる人と同じです。表に無限大があると、信じる可能性を少しでも残すすべての戦略が引き分けになり、計算はもう選択を区別できなくなります。
- 語り口。 1734 年、ヴォルテールはこの考えを「いささか不謹慎で子どもじみている」と評しました。救いを表か裏かの勝負のように扱うのは、主題をおとしめると思えたのです。
練習:一つの命を賭けて二つを得る
見込みが五分五分のとき、1 を賭けて 2 を得るとします。割に合うでしょうか。この賭けの期待値は
$$\frac12\cdot2-\frac12\cdot1=\frac12>0$$です。割に合います。3 を得るなら、期待値は $\frac12\cdot3-\frac12\cdot1=1$ で、さらに大きくなります。これがパスカルの第二段階を数で表したものです。
練習:利得が有限のときの賭け
利得が無限ではなく $G=1000$、コストが $c=5$、確率が $p=\frac1{1000}$ だとします。信じるのは割に合うでしょうか。
$$E=\frac1{1000}\cdot1000-\frac{999}{1000}\cdot5=1-4.995=-3.995<0.$$割に合いません。利得が有限なら、答えは数しだいで、ごく小さな確率が議論をくつがえすこともあります。どんな $p>0$ に対しても計算を揺るがないものにするのは無限大だけであり、まさにその無限大がコインの反論を生むのです。
出典: ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「Infini rien」(Lafuma 418、Sellier 680)· Ian Hacking, “The logic of Pascal’s wager”, American Philosophical Quarterly, 9(2), 1972, pp. 186–192 · Pascal’s Wager, Stanford Encyclopedia of Philosophy。