微積分戦争

ライプニッツは 1684 年と 1686 年に微積分を発表しました。ニュートンは 1665–1666 年に同じ考えに達していましたが、すべてを手稿にしまい込んでいました。15 年間、誰も何も争いませんでした。

1699 年、ニュートンの友人でスイスの数学者ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエが、ライプニッツはニュートンを参考にしたと著書でほのめかしました。1708 年、スコットランドのジョン・キールはさらに進んで、ライプニッツを剽窃で告発しました。根拠は、1676 年にロンドンを訪れたライプニッツが、ニュートンの『解析について』の写しを見たというものでした。

王立協会の会員だったライプニッツは、協会に公正な調査を求めました。1712 年、委員会はニュートンが最初の発明者であると結論しました。ライプニッツは自分の言い分を述べる機会を一度も与えられず、しかも報告書は、協会の会長であるニュートン本人がひそかに書いたものでした。

ライプニッツは匿名のパンフレットで応じ、争いを数学の挑戦問題で決着させようとしました。1716 年、問題が未解決のまま彼は亡くなりました。ニュートンはその死を聞いて、自分は「ライプニッツの心を打ち砕いた」と言ったと伝えられています。

今日の歴史家の結論ははっきりしています。二人はそれぞれ独立に微積分を発明しました。ライプニッツの手稿は、ニュートンとは異なる道を通って彼がどのように考えに達したかを一歩ずつ示しています。ニュートンが先に到達し、ライプニッツが先に発表し、しかもよりよい記号を使ったのです。

同じ物語をニュートンの側から語ったものは、ニュートンの遺産で読めます。

勝ち残った記号

この争いには思いがけない勝者がいました。記号です。ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュといった大陸の数学者たちはライプニッツの $dx$ と $\int$ を使い、18 世紀に微積分を大きく発展させました。イギリスではニュートンへの忠誠から点の記号が使われ続け、イギリスの数学は遅れました。1812 年、ケンブリッジの学生たちはまさにライプニッツの記号を採用するために解析協会を作り、それを冗談めかして、大学の「点の時代(もうろく時代)」に対抗する「純粋 d 主義」の推進だと言いました。

ライプニッツが数学に残したもの:

  • 記号 $dx$、$\dfrac{dy}{dx}$、$\int$
  • 数学的な意味での関数と座標という言葉
  • 掛け算の点「$\cdot$」と割り算のコロン「:」
  • 相似の記号 $\sim$ と合同の記号 $\cong$(今日のものに近い形で)

数学を超えて

ライプニッツは歴史上偉大な哲学者の一人でもあり、『モナドロジー』と『弁神論』を著しました。物理学では、動く物体の「力」をどう測るかをめぐってデカルトの支持者たちと論争し、彼の「活力」($mv^2$)は運動エネルギーという考えの祖先です。計算の分野では、二進法と推論を計算するという夢が、20 世紀になってようやく実現する考えを先取りしていました。

サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーは、ライプニッツをこの分野の「守護聖人」と呼びました。ドイツでもっとも重要な学術研究賞は、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞と呼ばれています。

まとめ

  • ライプニッツは 1646 年から 1716 年まで生き、数学者であると同時に法学者、外交官、図書館長、哲学者だった。
  • 大人になってからパリでホイヘンスに本格的に数学を学んだ。
  • 1675 年に記号 $d$ と $\int$ を作り、1684 年と 1686 年に微積分を発表した。
  • 連鎖律 $\dfrac{dz}{dx}=\dfrac{dz}{dy}\cdot\dfrac{dy}{dx}$ は、記号のおかげで約分のように見える。
  • 積の導関数は $u\,dv+v\,du$ であって、$du\,dv$ ではない。
  • $\int$ と $d$ は逆の操作である。差を足し合わせると全体が戻ってくる。
  • 二進法の算術を体系化し、1703 年に発表した。
  • 段付き円筒を使って掛け算のできる機械を作った。
  • $\dfrac\pi4=1-\dfrac13+\dfrac15-\cdots$ を見つけたが、マーダヴァとグレゴリーがすでに知っていた。
  • ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に微積分を発明した。

資料: 生涯と業績、MacTutor · ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ図書館のライプニッツ文書。


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