年表

  1. 1928
    6 月 13 日、アメリカ合衆国ウェストバージニア州ブルーフィールドに生まれる。
  2. 1945
    ピッツバーグのカーネギー工科大学に入学し、化学工学を学ぶ。のちに数学へ移る。
  3. 1948
    プリンストンに来る。仲間が「ナッシュ」と呼んだゲーム、今日のヘックスを考案する。
  4. 1950
    博士論文「非協力ゲーム」でナッシュ均衡を示す。「交渉問題」を発表する。
  5. 1951
    MIT の講師になる。
  6. 1956
    等長埋め込み定理を発表する。
  7. 1957
    MIT の物理学科の学生アリシア・ラルデと結婚する。
  8. 1958
    放物型方程式の正則性に関する結果を発表する。
  9. 1959
    初めて精神科に入院する。三十年にわたる病が始まる。
  10. 1994
    ジョン・ハーサニ、ラインハルト・ゼルテンとともにノーベル経済学賞を受ける。
  11. 2001
    アリシアと再婚する。映画『ビューティフル・マインド』が公開される。
  12. 2015
    ルイス・ニーレンバーグとともにアーベル賞を受ける。5 月 23 日、アリシアとともに交通事故で亡くなる。
  1. 鉄道と石炭の町で育つ。『数学をつくった人びと』を読み、フェルマーの小定理を独力で証明する。
  2. カーネギー工科大学で化学工学から数学に移り、交渉の考えを思いつく。
  3. ヘックスを考案し、ナッシュ均衡をふくむ 28 ページの博士論文を提出する。
  4. MIT で教える。埋め込み定理と放物型方程式の結果を証明する。1959 年、病が始まる。
  5. 「ファイン・ホールの幽霊」として廊下をさまよい、1980 年代の終わりに回復する。
  6. ジョン・ハーサニ、ラインハルト・ゼルテンとともにノーベル経済学賞を受ける。
  7. ルイス・ニーレンバーグとともにアーベル賞を受ける。帰国した 5 月 23 日、ニュージャージー州のタクシー事故でアリシアとともに亡くなる。
ブルーフィールドからプリンストンへ。ジョン・ナッシュの場所と、ノーベル賞・アーベル賞を受けに行った旅。 地図:© OpenStreetMap 協力者
  1. 1928–1945 · ブルーフィールド
  2. 1945–1948 · ピッツバーグ
  3. 1948–1951 · プリンストン
  4. 1951–1959 · MIT
  5. 1970–2015 · プリンストン
  6. 1994 · ストックホルム
  7. 2015 · オスロ
ブルーフィールドからプリンストンへ。ジョン・ナッシュの場所と、ノーベル賞・アーベル賞を受けに行った旅。

ブルーフィールドの少年

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは、ウェストバージニア州の鉄道と石炭の小さな町ブルーフィールドで生まれました。父は電力会社の電気技師、母は結婚前に英語とラテン語を教えていました。学校では、少年は内気で一人を好み、目立つ子ではありませんでした。家では化学や電気の実験をしていました。

高校時代、彼は E. T. ベルの『数学をつくった人びと』(Men of Mathematics)を読みました。大数学者たちの伝記です。フェルマーの章に心を打たれ、フェルマーの小定理を自分の力で証明しました。のちに彼は、ノーベル賞のために書いた自伝の中でこの出来事を振り返っています。

カーネギーと一行の推薦状

1945 年、彼は奨学金を得てピッツバーグのカーネギー工科大学に入り、化学工学を学び始めました。化学に移り、まもなく数学に移りました。先生たちはすぐに彼の才能に気づきました。国際経済学の授業、彼が生涯で受けた唯一の経済学の授業で、のちの交渉解となるアイデアを思いつきました。

1948 年、ハーバードとプリンストンから合格を受け、奨学金の多いプリンストンを選びました。恩師リチャード・ダフィンの推薦状は一行だけでした。「この男は天才である。」

プリンストン:ゲームと論文

プリンストンでナッシュはほとんど講義に出ませんでした。本を読むと独創性が損なわれると考え、自分で発見するほうを好んだのです。午後は数学棟ファイン・ホールの談話室で、チェスや囲碁をして過ごしました。そこで彼は六角形のマスからなる盤上ゲームを考案し、仲間はそれを「ナッシュ」と呼びました。今日のヘックスです。デンマーク人のピート・ハインが 1942 年に同じゲームを考案していましたが、ナッシュは知りませんでした。

1949 年の終わり、21 歳のナッシュは、ゲーム理論の第一人者ジョン・フォン・ノイマンを訪ね、あるアイデアを見せました。プレイヤーと戦略の数が有限であるどんなゲームにも、だれも一人で変えて得をしない戦略の組み合わせがある、というものです。伝記作家シルヴィア・ナサーによれば、フォン・ノイマンはこう答えました。「それは自明だよ。ただの不動点定理だ。」 ナッシュはこのアイデアを一ページの短い論文にして米国科学アカデミーの『紀要』に発表し、1950 年 5 月、28 ページの博士論文「非協力ゲーム」で学位を得ました。これがナッシュ均衡です。

MIT:賭け

1951 年、ナッシュは MIT に移りました。傲慢で優秀な彼は、同僚を挑発するのが好きでした。その一人、幾何学者のウォーレン・アンブローズが挑戦しました。そんなに優秀なら、抽象的な曲面を長さを変えずにユークリッド空間に埋め込む問題を、なぜ解かないのか。ナッシュは受けて立ちました。1956 年、専門家が手の届かないものと考えていた等長埋め込み定理を発表しました。

その直後、彼はもう一つの有名な問題、微分方程式の解の正則性に取り組みました。1957 年に解きましたが、イタリアのエンニオ・ド・ジョルジが数か月前に別の方法で同じ結果を得ていたことを知ります。多くの人は、これがなければナッシュは 1958 年にフィールズ賞を受けていただろうと考えています。

2006 年、ドイツのケルンでの会議に出席したジョン・ナッシュ。
2006 年、ドイツのケルンでの会議に出席したジョン・ナッシュ。Elke Wetzig · Wikimedia Commons · CC BY-SA 3.0

病

1957 年、ナッシュはエルサルバドル出身の物理学科の学生アリシア・ラルデと結婚しました。MIT での彼の教え子でした。1959 年の初め、アリシアの妊娠中に、ナッシュは妄想を抱くようになります。新聞を通じて宇宙人から暗号のメッセージを受け取っていると言い、シカゴ大学のポストを断りました。理由は、自分は南極の皇帝になるから、というものでした。彼は妄想型統合失調症と診断され、入院しました。

それから三十年、入院と治療、よくなったり悪くなったりの日々が続きました。ナッシュは MIT の職を失い、アメリカ国籍を捨てようとヨーロッパを転々とし、1970 年代からはプリンストンの廊下をさまようようになりました。学生たちは彼を「ファイン・ホールの幽霊」と呼びました。黒板に奇妙な式や数秘術を書きつける、やせて無口な男です。アリシアは 1963 年に離婚しましたが、1970 年に彼を下宿人として家に迎え入れ、世話をやめることはありませんでした。

帰還

1980 年代の終わり、ナッシュはよくなりました。彼自身、妄想に影響された考え方を少しずつ理性で退けるようになったと書いています。1994 年、非協力ゲーム理論における均衡の分析により、ジョン・ハーサニ、ラインハルト・ゼルテンとともにノーベル経済学賞を受けました。

1998 年、ジャーナリストのシルヴィア・ナサーが伝記『ビューティフル・マインド』を出版し、2001 年にはそれをもとにした映画が作品賞を含む四つのアカデミー賞を獲得しました。同じ年、ナッシュとアリシアは再婚しました。2015 年、偏微分方程式への貢献により、ルイス・ニーレンバーグとともに数学で最も重要な賞であるアーベル賞を受けました。2015 年 5 月 23 日、授賞式のあったオスロからの帰り道、ナッシュとアリシアはニュージャージー州の高速道路でタクシーの事故により亡くなりました。彼は 86 歳、彼女は 82 歳でした。

出典: ジョン・ナッシュの自伝、ノーベル財団 · Sylvia Nasar、A Beautiful Mind(Simon & Schuster、1998)· 2015 年アーベル賞。


ジョン・ナッシュの全トピック · ヘックス:なぜ先手が勝つのか →

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