Hero Image
画像クレジット

歴史的な画像と写真 すべてウィキメディア・コモンズから取りました。コモンズが提供するサムネイルを、編集せずに使っています。 マクスウェルの肖像、G. J. Stodart の版画、1890 年:元のページ · パブリックドメイン。 タータンのリボン、最初のカラー写真、マクスウェルとトマス・サットン、1861 年:元のページ · パブリックドメイン。 上から見た土星、探査機カッシーニ、2013 年:NASA/JPL-Caltech/Space Science Institute、元のページ · パブリックドメイン。 マイケル・ファラデー、1850 年代の写真、作者不明:元のページ · パブリックドメイン。 『電気磁気論』の扉、オックスフォード、1873 年:元のページ · パブリックドメイン。 犬のトビーをつれたマクスウェルの像、エディンバラ、Зеленый кабинет 撮影:元のページ · CC BY-SA 2.0。 ブログの図 表紙、波の形の図、窒素のマクスウェル分布のグラフは、このサイトのオリジナルのイラストで、サイトの各言語の版があります。グラフは分布の正確な式で計算して描きました。方程式の記事にある四元数とベクトルの話は、このサイトの旧ベクトル講座の一部をもとにしています。 記録 ファイル data/maxwell_imagens.json には、ダウンロードした各画像の出所、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュが記録されています。各トピックの歴史的な出典は、それぞれの記事の末尾にあります。 ジェームズ・クラーク・マクスウェルの全トピック · ← ジェームズ・クラーク・マクスウェルの遺産

Hero Image
空気の重さ:ピュイ・ド・ドームの実験

二千年ものあいだ、学者たちはアリストテレスの言葉をくり返してきました。自然は真空を嫌う。ストローで空気を吸うと液体が上がってくるのは、自然がそこを空っぽのままにしておかないからだ、というのです。これですべてが説明できるように思えました。 ところが、フィレンツェの井戸掘り職人たちは困っていました。どんなに頑張っても、吸い上げポンプでは水を約 10 メートルより高く上げられなかったのです。自然の真空嫌いが、なぜ 10 メートルで止まるのでしょうか。 トリチェリの管 1643 年、ガリレオの弟子だったイタリアのエヴァンジェリスタ・トリチェリは、一方の端を閉じた長さ 1 メートルのガラス管に水銀を満たしました。もう一方の端を指でふさぎ、管を逆さにして水銀を入れた盆に立て、指を離しました。水銀は下がって約 76 cm の高さで止まり、管の上部に何もない空間が残りました。 トリチェリの説明は大胆なものでした。水銀柱を支えているのは真空嫌いではなく、盆の表面を押している空気の重さだというのです。私たちは空気の海の底に住んでいる、と彼は書きました。水銀は水の約 13.6 倍の密度があり、$76\ \text{cm}\times13.6\approx10.3$ m です。フィレンツェのポンプの限界と同じ値です。 パスカル、実験を高いところへ パスカルは 1646 年にこの実験のことを聞き、ルーアンで水やワインを満たした巨大なガラス管を使って再現しました。しかし彼は決定的な検証をしたいと考えました。彼の推論はこうです。もし水銀を支えているのが空気の重さなら、上にある空気が少ない山の頂上では、水銀柱は低くなるはずだ。もし原因が真空嫌いなら、高さは何の違いももたらさないはずだ。 パスカルはパリに住んでいて、体も弱かったので、1647 年 11 月、クレルモンに住む義兄フロラン・ペリエに手紙を書きました。クレルモンは、高さ 1500 メートル近い死火山ピュイ・ド・ドームのふもとにある町です。 1648 年 9 月 19 日 ペリエは証人になってもらうために、クレルモンの神父や名士たちと一緒に山に登りました。管を二本と水銀を持っていきました。この実験には現代的な発想がありました。登る前に、町でいちばん低いところにあるミニム会修道院の庭で二本の管を組み立て、同じ高さになることを確かめたのです。一本はそこに残し、シャスタン神父という修道士に一日じゅう見張ってもらいました。もう一本を持って山に登りました。 ピュイ・ド・ドームの山頂にある 1648 年の実験の記念碑。パスカル生誕三百年の 1923 年に撮影。Agence Rol、1923 年 · フランス国立図書館 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 当時の単位での測定結果は次のとおりです。 場所 水銀の高さ クレルモンのミニム会修道院の庭 26 プース 3½ リーニュ ピュイ・ド・ドームの山頂(約 500 トワーズ上) 23 プース 2 リーニュ フランスの 1 プースは約 $27.07$ mm、1 リーニュは 1 プースの $\frac1{12}$ です。換算すると

Hero Image
フェルマーの最終定理:余白からワイルズの証明まで

三平方の定理は誰もが知っています。$3^2+4^2=5^2$。このような整数の三つ組は、$5,12,13$ や $8,15,17$ のように無限にあります。 では 3 乗ならどうでしょう? $a^3+b^3=c^3$ を満たす正の整数はあるでしょうか? 4 乗なら? 余白の書き込み 1670 年版ディオファントス『算術』の問題 II.8 のページ。問題のすぐ下に「Observatio Domini Petri de Fermat」、つまりフェルマーの余白の書き込みが、息子の手で印刷されている。ディオファントス、サミュエル・ド・フェルマー編(1670) · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 1637 年ごろ、平方数を二つの平方数に分けるというディオファントスの問題を読んでいたフェルマーは、本の余白にラテン語でこう書きました。 立方数を二つの立方数に、4 乗数を二つの 4 乗数に、一般に 2 乗より高いべきを二つの同じべきに分けることは不可能である。私はこれについて真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。 — ピエール・ド・フェルマー、1637 年ごろ 今日の言葉で言えば、$n>2$ のとき、次を満たす正の整数 $a$、$b$、$c$ は存在しない。 $$a^n+b^n=c^n.$$この書き込みが世に出たのは 1670 年、フェルマーの息子が父の書き込み入りの本を出版したときでした。証明は見つかりませんでした。余白のほかの主張は、時とともにすべて証明されるか否定されるかしました。これが最後まで残ったので、最終定理と呼ばれるようになったのです。 358 年の挑戦 フェルマー自身は無限降下法で $n=4$ の場合を証明しました。ほかの場合も一つずつ片づいていきました。 1770 年:オイラーが $n=3$ の場合を証明。 1825 年:ディリクレとルジャンドルが $n=5$ の場合を証明。 1820 年代:真剣に扱ってもらうため男性の名前で手紙を書いていたソフィー・ジェルマンが、ある種類の素数全体に当てはまる一般的な結果を証明。 1839 年:ラメが $n=7$ の場合を証明。 1847 年:エルンスト・クンマーが新しい考えを生み出し、100 までの「正則」素数について、三つを除いて定理を証明。 しかし、すべての指数についての証明を見つけた人はいませんでした。

Hero Image
ライプニッツの遺産

微積分戦争 ライプニッツは 1684 年と 1686 年に微積分を発表しました。ニュートンは 1665–1666 年に同じ考えに達していましたが、すべてを手稿にしまい込んでいました。15 年間、誰も何も争いませんでした。 1699 年、ニュートンの友人でスイスの数学者ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエが、ライプニッツはニュートンを参考にしたと著書でほのめかしました。1708 年、スコットランドのジョン・キールはさらに進んで、ライプニッツを剽窃で告発しました。根拠は、1676 年にロンドンを訪れたライプニッツが、ニュートンの『解析について』の写しを見たというものでした。 王立協会の会員だったライプニッツは、協会に公正な調査を求めました。1712 年、委員会はニュートンが最初の発明者であると結論しました。ライプニッツは自分の言い分を述べる機会を一度も与えられず、しかも報告書は、協会の会長であるニュートン本人がひそかに書いたものでした。 ライプニッツは匿名のパンフレットで応じ、争いを数学の挑戦問題で決着させようとしました。1716 年、問題が未解決のまま彼は亡くなりました。ニュートンはその死を聞いて、自分は「ライプニッツの心を打ち砕いた」と言ったと伝えられています。 今日の歴史家の結論ははっきりしています。二人はそれぞれ独立に微積分を発明しました。ライプニッツの手稿は、ニュートンとは異なる道を通って彼がどのように考えに達したかを一歩ずつ示しています。ニュートンが先に到達し、ライプニッツが先に発表し、しかもよりよい記号を使ったのです。 同じ物語をニュートンの側から語ったものは、ニュートンの遺産で読めます。 勝ち残った記号 この争いには思いがけない勝者がいました。記号です。ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュといった大陸の数学者たちはライプニッツの $dx$ と $\int$ を使い、18 世紀に微積分を大きく発展させました。イギリスではニュートンへの忠誠から点の記号が使われ続け、イギリスの数学は遅れました。1812 年、ケンブリッジの学生たちはまさにライプニッツの記号を採用するために解析協会を作り、それを冗談めかして、大学の「点の時代(もうろく時代)」に対抗する「純粋 d 主義」の推進だと言いました。 ライプニッツが数学に残したもの: 記号 $dx$、$\dfrac{dy}{dx}$、$\int$ 数学的な意味での関数と座標という言葉 掛け算の点「$\cdot$」と割り算のコロン「:」 相似の記号 $\sim$ と合同の記号 $\cong$(今日のものに近い形で) 数学を超えて ライプニッツは歴史上偉大な哲学者の一人でもあり、『モナドロジー』と『弁神論』を著しました。物理学では、動く物体の「力」をどう測るかをめぐってデカルトの支持者たちと論争し、彼の「活力」($mv^2$)は運動エネルギーという考えの祖先です。計算の分野では、二進法と推論を計算するという夢が、20 世紀になってようやく実現する考えを先取りしていました。 サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーは、ライプニッツをこの分野の「守護聖人」と呼びました。ドイツでもっとも重要な学術研究賞は、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞と呼ばれています。 まとめ ライプニッツは 1646 年から 1716 年まで生き、数学者であると同時に法学者、外交官、図書館長、哲学者だった。 大人になってからパリでホイヘンスに本格的に数学を学んだ。 1675 年に記号 $d$ と $\int$ を作り、1684 年と 1686 年に微積分を発表した。 連鎖律 $\dfrac{dz}{dx}=\dfrac{dz}{dy}\cdot\dfrac{dy}{dx}$ は、記号のおかげで約分のように見える。 積の導関数は $u\,dv+v\,du$ であって、$du\,dv$ ではない。 $\int$ と $d$ は逆の操作である。差を足し合わせると全体が戻ってくる。 二進法の算術を体系化し、1703 年に発表した。 段付き円筒を使って掛け算のできる機械を作った。 $\dfrac\pi4=1-\dfrac13+\dfrac15-\cdots$ を見つけたが、マーダヴァとグレゴリーがすでに知っていた。 ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に微積分を発明した。 資料: 生涯と業績、MacTutor · ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ図書館のライプニッツ文書。

Hero Image
ニュートンの遺産

ニュートンは史上最大の天才であり、もっとも幸運な人でもあった。宇宙は一つしかなく、それを発見できるのは一度きりなのだから。 — ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、同時代人の記録による 微積分戦争 ニュートンは 1665–1666 年に流率法を作りましたが、発表しませんでした。ライプニッツは 1675 年に独立に微積分にたどり着き、1684 年に発表しました。最初の数年間、争いはありませんでした。1676 年には二人はヘンリー・オルデンバーグを通じて友好的な手紙を交わし、ニュートンは自分の考えをアナグラムに隠しました。 1700 年ごろ、空気が変わりました。ニュートンの支持者たちが、ライプニッツはロンドンで見た手稿から考えを写したのだとほのめかし始めたのです。ライプニッツは王立協会に抗議し、公正な調査を求めました。王立協会は委員会を設置し、1712 年にニュートンに有利な報告書を発表しました。 当時ほとんど知られていなかったことがあります。王立協会の会長はニュートン本人で、報告書を書いたのも彼だったのです。その後、彼は報告書を称賛する書評を匿名で発表しました。 今日の歴史家は、二人がそれぞれ独立に微積分を発明したという点で一致しています。ニュートンが先に到達し、ライプニッツが先に発表し、勝ち残った記号を作りました。この争いの代償は大きなものでした。国の誇りのために、イギリスの数学者たちは 1 世紀以上ニュートンの点の記号にこだわり、その間に大陸はライプニッツの $dx$ を使って、ベルヌーイ家やオイラーの手で大きく前進しました。1812 年になってようやく、ケンブリッジの学生たちが解析協会を作り、ライプニッツの記号をイギリスに取り戻しました。 この物語のもう一方の側は、ライプニッツのシリーズで読むことができます。 ニュートン力学の限界 200 年以上、ニュートンの法則はどこでも成り立つように見えました。20 世紀のはじめ、二つの理論がその限界を明らかにしました。 相対性理論。 光の速さに近い速度では、ニュートンが考えたように時間と空間が絶対的なものではなくなります。相対性理論では、動いている時計で測った時間間隔 $t'$ は、静止している人にとってはより長い時間間隔に対応します。 $$t=\frac{t'}{\sqrt{1-\dfrac{v^2}{c^2}}}.$$速度 $v$ が光速 $c$ に比べて小さいとき、根号はほぼ 1 になり、ニュートンの世界に戻ります:$\displaystyle\lim_{v\to0}t=t'$。$v\to c$ のときは、差はいくらでも大きくなります。 量子力学。 原子や粒子では、はっきりした軌道というものが意味をもたなくなります。 だからといって、日常生活でニュートンがまちがっているわけではありません。橋、自動車、飛行機、ロケットにとって、彼の力学は今でも使われるほど正確です。相対性理論はニュートンを消し去ったのではなく、ニュートンがどこまで通用するかを示したのです。 讃辞 「才知において人類を超えた人」 ケンブリッジのトリニティ・カレッジの礼拝堂には、プリズムを手にしたニュートンの大理石像があります。1755 年にルイ=フランソワ・ルビリアックが制作したものです。台座にはローマの詩人ルクレティウスの言葉が刻まれています。Qui genus humanum ingenio superavit、「才知において人類を超えた人」。ここで学んだ詩人ワーズワースは、この像を「思想の見知らぬ海を、永遠にただ一人旅する精神の、大理石の標」と表現しました。 ニュートンはウェストミンスター寺院に、王や女王たちに囲まれて葬られました。墓碑には、プリズム、反射望遠鏡、鋳造したばかりの硬貨を手にした天使たちと、1680 年の彗星の軌道が描かれた天球儀が刻まれています。 まとめ ニュートンは当時のイギリスの暦では 1642 年、私たちの暦では 1643 年に生まれた。 22 歳のとき、ペストで隔離されていた間に、二項級数、流率法、色の理論を生み出した。 二項式 $(1+x)^\alpha$ は、$|x|<1$ ならどんな指数でも成り立つ。 流率 $\dot x$ は変化率を測り、面積はその逆の操作である。 ニュートン法は接線をたどって根に近づく:$x_{n+1}=x_n-f(x_n)/f'(x_n)$。 『プリンキピア』(1687)には三つの運動法則と万有引力の法則がある。 月の検証は、地球の重力が距離の 2 乗に反比例して弱まることを示した。 プリズムは白い光にもともとある色を分けるのであって、色を作るのではない。 ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に微積分を発明した。 資料: 手稿への案内、ニュートン・プロジェクト · MacTutor の伝記。

Hero Image
アラン・チューリングの遺産

チューリングは機械が考えると信じている。チューリングは男と寝る。ゆえに機械は考えない。 — アラン・チューリング、ノーマン・ラウトレッジへの手紙(1952) 有罪判決の直後にチューリングが友人に書いたこの苦い三段論法は、彼の生涯を要約している。論理で考える人が、彼を理解しない人々に裁かれたのである。しかし、彼が残した仕事はいたるところにある。 計算機科学の中に チューリング機械は今も、計算するとはどういうことかの公式の定義である。計算機科学者が、ある問題には「アルゴリズムがない」と言うとき、それはどのチューリング機械もその問題を解けないという意味であり、ある問題が「難しい」と言うとき、数えているのはチューリング機械に必要な歩数である。 その数え方から、この分野で最も有名な問い、P 対 NP が生まれた。答えを確かめるのがやさしい問題は、どれも答えを見つけるのもやさしいのか。ジグソーパズルを組むのは難しいが、組み上がったパズルを確かめるのはやさしい。この違いが本物なのか、私たちの工夫が足りないだけなのかは誰も知らない。クレイ研究所は、これに答えた人に百万ドルを出すとしている。 1966 年から、計算機学会(ACM)は毎年チューリング賞を授与している。計算機科学のノーベル賞とみなされている賞である。 暗号と統計学の中に エニグマとの戦いは、暗号の安全性は鍵の数ではなく、鍵の大部分を一度に除けてしまう欠陥がないことにあると教えた。現代の暗号はこの教訓から生まれた。そしてデシバンは、I・J・グッドを通じて、ベイズ統計学を科学の中心に呼び戻す助けになった。 生物学と人工知能の中に 形態形成の方程式は、模様の数理生物学という一つの分野全体の土台になっている。そして模倣ゲームは、機械が会話するようになった今も、機械が考えるかどうかをめぐるあらゆる議論の基準である。 マンチェスターのサックヴィル公園にあるチューリングの像。2001 年に除幕された。ベンチに座り、リンゴを手にしている。David Dixon · Wikimedia Commons · CC BY-SA 2.0 名誉の回復 何十年ものあいだ、チューリングの戦時の仕事は国家機密であり、有罪判決は口にされない話題だった。状況が変わりはじめたのは 1983 年、数学者アンドルー・ホッジスの書いた伝記からである。その後、次のことが続いた。 2001 年、大学のそばの公園にマンチェスターの像。 2009 年、イギリス政府の謝罪。 2013 年の国王恩赦と、ほかの有罪者にも恩赦を与えた 2017 年の法律。 彼の誕生日である 2021 年 6 月 23 日に発行された、彼の肖像の 50 ポンド紙幣。 覚えておくこと 1936 年:チューリング機械が計算とは何かを定義し、万能機械がプログラム内蔵式の計算機を先取りする。 1936 年:停止問題がどの機械にも答えられない問いがあることを示し、計算可能数がほとんどの実数に手が届かないことを示す。 1939–1945 年:エニグマの数え上げと欠陥、ボンブ、そしてデシバンを使うバンブリスムス。 1950 年:模倣ゲームが「機械は考えるか」という問いをテストに置き換える。 1952 年:形態形成が、拡散がどのように模様を生むかを説明する。 練習:確かめるのはやさしい誰かが $8633=89\cdot97$ だと言う。確かめる手間はどれだけか。ヒントなしに因数を見つけるにはどれだけかかるか。 確かめるにはかけ算一回でよい。$89\cdot97=89\cdot100-89\cdot3=8900-267=8633$。見つけるには $\sqrt{8633}\approx93$ までの約数を試さなければならない。2 から 89 までの素数は 24 個あり、うまくいくのは最後の一つだけである。何百桁もの数になると、確かめるのは今でも一瞬だが、見つけるのは不可能に近くなる。インターネットの暗号はこの非対称に支えられている。

Hero Image
ラグランジュの画像クレジット

歴史的な画像 すべてウィキメディア・コモンズから取得しました。コモンズが提供する縮小画像を、編集せずに使っています。 ジョゼフ=ルイ・ラグランジュの肖像、作者不詳の版画:出典ページ · パブリックドメイン。 ラグランジュの横顔のメダイヨン、ピエール=ジャン・ダヴィッド・ダンジェ作のブロンズ、アンジェ美術館蔵:出典ページ · CC0。 『解析力学』(Méchanique analitique)の扉、パリ、1788 年:出典ページ · パブリックドメイン。 トリノのラグランジュ像、Twice25 撮影、2009 年:出典ページ · CC BY-SA 3.0。 ブログの図 表紙、五つのラグランジュ点の図、そして面積の等しい曲線と制約の直線のグラフは、このサイトのそれぞれの言語版を用意したオリジナルの図です。ラグランジュ点の図は縮尺どおりではありません。実際には、L1 と L2 は、太陽と地球の距離の百分の一しか地球から離れていません。 記録 ファイル data/lagrange_imagens.json に、ダウンロードした各画像の出典、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュを記録しています。各テーマの歴史的な出典は、それぞれの記事の最後にあります。 ラグランジュの全トピック · ← ラグランジュの遺産

Hero Image
画像クレジット

歴史的な画像 すべてウィキメディア・コモンズから取りました。コモンズが提供するサムネイルを、編集せずに使っています。ユークリッドの生前に描かれた肖像はひとつもありません。出まわっている彼の姿は、ずっとあとの画家たちの想像です。 オクシリンコスのパピルス、命題 II.5、紀元 100 年ごろ、ペンシルヴェニア大学博物館:元のページ · パブリックドメイン。 『アテナイの学堂』の部分、ラファエロ、1509–1511 年:元のページ · パブリックドメイン。 オリヴァー・バーン版の命題 I.47、ロンドン、1847 年、Mirko Junge によるスキャン:元のページ · パブリックドメイン。 『原論』の最初の印刷版、エアハルト・ラトドルト、ヴェネツィア、1482 年、Folger Shakespeare Library:元のページ · CC BY-SA 4.0。 『原論』のアラビア語版、ナスィールッディーン・トゥースィーの版、ローマ、1594 年、ホートン図書館:元のページ · パブリックドメイン。 ブログの図 表紙、正三角形の作図、ピタゴラスの定理の図、平方完成の図は、このサイトのオリジナルのイラストで、サイトの各言語の版があります。平方完成の例 $x^2+10x=39$ と練習問題 $x^2+8x=65$ は、このサイトの旧二次方程式講座から取り、図は描きなおしました。3、4、5 と 6、8、10 の例と版の表は、旧幾何学講座と旧三角法講座から来ています。 記録 ファイル data/euclides_imagens.json には、ダウンロードした各画像の出所、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュが記録されています。各トピックの歴史的な出典は、それぞれの記事の末尾にあります。 ユークリッドの全トピック · ← ユークリッドの遺産

Hero Image
パスカルの賭け:証明ではなく、計算

パスカルが「神の存在を証明した」と聞いたことのある人は多いでしょう。彼はそんなことはしていませんし、それはできないとはっきり書いています。彼が提案したのは、もっと興味深いことでした。理性で決着がつかないのなら、問いを取り替えよう、というのです。「神は存在するか」と問うかわりに、「どちらに賭けるほうが得か」と問う。そしてこの二つめの問いに、フェルマーと生み出したばかりの数学、つまり公平な分配の数学で答えようとしたのです。 書き込みだらけの紙 『パンセ』の自筆の紙片。パスカルの死後、大きな台帳に貼りつけられたもので、2016 年のフランス国立図書館の展覧会で撮影された。パスカルは紙切れに、いろいろな向きに書き、何度も線で消しました。ActuaLitté · Wikimedia Commons · CC BY-SA 2.0 晩年のパスカルは、キリスト教を弁護する本のためにメモを集めていましたが、その本を書き上げることはありませんでした。1662 年に彼が亡くなると、友人たちは何百もの断片を見つけました。はさみで切り抜かれ、糸で束ねられたものもありました。友人たちはその一部を選び、1670 年に『パンセ』(思考)という題で出版しました。 賭けの断片は、二つ折りにした一枚の紙で、両面に書かれ、余白や逆さまの向きにも書き足されています。編者たちはこれを書き出しのことばで呼んでいます。**「無限、無」**です。これはパスカルと、信仰をもたない相手との対話で、その相手は、パスカルがパリの社交界で知り合ったシュヴァリエ・ド・メレのような賭博師たちをモデルにしているのかもしれません。 理性では決められない 出発点は、無力の告白です。 神は存在するか、しないかである。だが、私たちはどちらの側に傾くのか。理性はここでは何も決定できない。無限の混沌が私たちを隔てている。この無限の距離の果てで、ある勝負が行われていて、表か裏かが出る。あなたは何に賭けるか。 — ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」 相手は、正しいのは何にも賭けないことだと答えます。パスカルはその逃げ道を認めません。 そうだ、しかし賭けなければならない。それは任意ではない。あなたはもう船に乗っているのだ。 — ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」 信じる者として生きることも、信じない者として生きることも、すでに一つの選択です。選ばないことは、後者を選ぶことになります。 四つのマスの表 今日では、この賭けは表の形で書かれます。選択が二つ、世界の状態が二つあります。 神は存在する 神は存在しない 信じる 無限の利得:「無限に幸福な無限の生」 失うものは少ない:いくつかの楽しみ 信じない すべてを失う 得るものは少ない:その同じ楽しみ パスカルはこの表を三つの段階でたどり、段階ごとに議論は強くなっていきます。哲学者イアン・ハッキングは 1972 年の論文で、これらが三つの別々の議論であり、三つめが期待値の計算であることを示しました。 第一段階:優越。「勝てば、すべてを得る。負けても、何も失わない。だから、ためらわずに神が存在するほうに賭けなさい。」どの列でも信じるほうがよいか同じなら、計算するまでもありません。 **第二段階:五分五分のときの計算。**相手は、自分は何かを失うと反論します。パスカルはそれを認め、サイコロの勝負のように計算します。勝ち負けの見込みが五分五分なら、一つの命を賭けて二つの命を得るのは割に合う。一つを賭けて三つを得る勝負を見送るのは愚かだ、と。 **第三段階:無限。**では、見込みが五分五分でなかったら? パスカルは、それは問題ではないと答えます。 ここには、得るべき無限に幸福な無限の生があり、負けの有限個の見込みに対して勝ちの見込みが一つある。そしてあなたが賭けるものは有限である。 — ブレーズ・パスカル『パンセ』、断片「無限、無」 計算 神が存在する確率をあなたがどれほど小さく見積もっても、それを $0$ より大きい $p$ としましょう。信仰生活のコストを有限の数 $c$、神が存在する場合の利得を $G$ とします。信じることの期待値は $$E(\text{信じる})=p\cdot G-(1-p)\cdot c$$です。$G$ が有限なら、結果はどうにでもなります。$p$、$G$、$c$ しだいです。しかしパスカルは $G=\infty$ とおきます。すると、どんな $p>0$ についても $$p\cdot\infty-(1-p)\cdot c=\infty$$となり、有限のどんな選択肢も太刀打ちできません。これは賭け金の分配と同じ考え方です。それぞれの賭けの価値は、賞金に見込みをかけたものです。違うのは、今度は賞金が無限大だということです。 1670 年版を写した海賊版の一冊にある『パンセ』の最初のページ。第 1 章の題は「無神論者の無関心に反対して」です。Clermont Auvergne Métropole · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 証明ではない この計算が言っていないことに注意してください。計算は確率 $p$ を少しも大きくしません。神が存在する見込みは千に一つだと思っていた人は、賭けのあとでも千に一つだと思っています。この議論は何をすべきかについてのもので、何が真かについてのものではありません。

Hero Image
フェルマーの遺産

数論の父 1670 年版ディオファントス『算術』の扉。トゥールーズで「P. ド・フェルマーの注釈つき」で印刷された。フェルマーの死から 5 年後に息子が出版したこの本によって、余白の書き込みはオイラーのもとに届いた。ベルナール・ボスク、トゥールーズ(1670) · Wikimedia Commons · パブリックドメイン フェルマー以前、整数についての問題は、ディオファントスのパズルのような謎解きと見なされていました。フェルマーはそれを、深い問いと独自の方法をもつ数学の一分野に変えました。1 世紀近く、彼のあとに続く人はほとんどいませんでした。1730 年以降、フェルマーの書き込みを読み、その多くを証明して数論を数学の中心的な分野にしたのはオイラーでした。そのあとにラグランジュ、ルジャンドル、ガウスが続きました。 そのほかの発見 すべてを挙げれば長くなります。いくつかのハイライトを: 二つの平方数の和: 奇素数が二つの平方数の和になるのは、それを 4 で割った余りが 1 のときに限る。たとえば $13=4+9$、$29=4+25$ だが、$7$ や $11$ はそうならない。フェルマーが 1640 年に発表し、オイラーが 1749 年に証明した。 ペル方程式: フェルマーがイギリス人に挑んだ方程式 $x^2-Ny^2=1$ は、$N$ が平方数でなければ、つねに無限に多くの解をもつ。 多角数: すべての正の整数は、高々 3 つの三角数の和、4 つの平方数の和、5 つの五角数の和、以下同様に表せる。平方数の場合はラグランジュが 1770 年に、三角数の場合はガウスが 1796 年に証明した。 曲線の長さ: フェルマーはいくつかの曲線の弧の長さを計算した。これも微積分への道を開いた問題である。 微積分への道 フェルマーの解析幾何学によって、曲線を方程式で書けるようになりました。彼の極大・極小の方法は、本質的には導関数である計算で接線や極値を求めました。$y=x^n$ の形の曲線の下の面積も計算しました。欠けていたのは、接線と面積が逆の操作だと気づくことだけでした。その一歩を踏み出したのはニュートンとライプニッツです。 物理学では、最短時間の原理が学校で習う反射と屈折を説明し、現代物理学の最適化原理への道を開きました。 まちがった予想からも学べる フェルマーは、$2^{2^n}+1$ の形の数がすべて素数だと考えたのはまちがいでした。それでもこの問いはオイラーを新しい技法に導き、思いがけずガウスの正十七角形に再び現れました。数学では、答えが予想に反するときでさえ、よい問いには大きな価値があるのです。 そして最終定理は、フェルマーの「驚くべき」証明があったにせよなかったにせよ、数学者たちに、それを解くための理論を丸ごと作り出させました。ワイルズの証明は遠く離れて見えた二つの分野を結びつけ、その道具は今ではもとの問題をはるかに超えて使われています。 まとめ フェルマーの生まれた町ボーモン=ド=ロマーニュにある記念像。彫刻家アレクサンドル・ファルギエールの作品。Didier Descouens · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 フェルマーはトゥールーズの裁判官で、楽しみのために数学をし、生前はほとんど何も出版しなかった。 同じ名前の異母兄がいたため、生年は 1601 年とも 1607 年ともされる。 デカルトとは独立に解析幾何学を創始した。 彼のアデカリティの方法は、ニュートンとライプニッツの微積分以前に極大・極小を求めた。 小定理は、素数 $p$ が $a$ を割り切らないとき $a^{p-1}\equiv1\pmod p$ であることを述べる。 すべての $2^{2^n}+1$ は素数だと予想したが、オイラーが $F_5$ は 641 の倍数であることを示した。 1654 年、パスカルとともに分配問題から確率論を創始した。 最短時間の原理は屈折の法則を説明する。 無限降下法は、ある種の方程式に整数解がないことを証明する。 最終定理は 358 年待ち、1995 年にアンドリュー・ワイルズが証明した。 資料: フェルマーの生涯と業績、MacTutor。